洛タイ投書箱



すべなき業の悲しみ―佐伯敏子を悼む―
2017年 10月 25日


◆…いきなり私事で恐縮だが、今年10月4日の仲秋名月に伊勢神宮の観月会に招かれた。短歌入選で15年ぶりなので、これが80老人にとっては最後と出席した。選者の岡野弘彦先生は93歳で、わが国の短歌壇の長老で久しぶりの出会いとなった。折しも今年、角川「短歌」の八月号に「すべなき業(ごふ)」とのタイトルで三十首詠を発表しておられる。先生は戦争で多くの学友を亡くし「生くるかぎり身によみがへるかなしみを胸に刻みてわが生きむとす」と詠い、絶えず鎮魂の思いで生きておられる。私も幼くして父を沖縄戦で亡くし、今年2月、父の戦跡を巡ってきた。そんな思いを同時代に生きる「すべなき業」として先生に告げていたのであった。
◆…5日、伊勢から帰って新聞を広げると、広島の原爆供養塔の清掃など、40年を超え奉仕された佐伯敏子さん(97)の死を知った。佐伯さんは京田辺市や市内の草内の平和活動に広島と京田辺の橋渡し役として協力下さった人なのである。長寿を全うされたので、佐伯さんを知る京田辺市の人たちはすでに故人。当時、一番若かった私だけが佐伯さんを知り、時々、文通を交わしていた。今年の夏、病状が悪化したのをテレビが報じたので、急遽、京田辺の戦争展で京田辺とのつながりを展示したのであった。
◆…昭和39年9月7日、結成されたばかりの草内老人クラブの人たちは、子どもたちが積み立てしてくれた親孝行預金ではじめての旅行に広島を選び、特産の緑茶を土産に訪問した。原爆慰霊碑や原爆病院を訪ね、被爆者の方々と交流し、以後、数年間にわたって地元茶や朝顔、菊などの苗を送り続けた。
◆…昭和40年6月には当時の病院長であった重藤文夫氏からの礼状に添えて、原爆遺品の被爆瓦や石などが送られてきたのをきっかけに、当時の田辺町議会は仮称平和の塔の建立を決議した。6月30日だった。
◆…京田辺市の現在の平和活動事業のルーツはこの日にはじまったと言ってよい。昭和41年8月6日は、平和の塔が完成し、当時の田辺町役場の玄関前を飾った。「塔」というより、打ち寄せるさざ波のようなもので、亡くなられた人々の魂がひたひたと伝わってくる平和への祈りのように私は思えた。(現在、京田辺市役所の玄関前右手に移動設置されている)
◆…続いて昭和42年8月6日は、草内小学校の校門前に「平和の鐘」が建立除幕された。それからも老人クラブの人たちとの交流は続いた。
◆…やがて草内の平和の鐘建立5周年を迎えた昭和47年8月6日「原爆犠牲者慰霊と平和祈念式典」が行われた。この時、広島市から山田節男市長の特使として佐伯敏子さんが草内の地を訪れた。行動的なバイタリティーに富んだ女人と記憶している。私はその日、佐伯さんに献詩として「長歌」をおくった。

「めぐりくる 日本の夏 ふるさとの 平和の鐘は 村びとが こぞりて捧ぐ うつくしき ねがいならむや 今われら 鐘に誓わん 国ぐにの あらそいなくし 人びとらにくしみをすて 結びあう心と心 とことわにひとつのもとに いま遠く広島のひと 佐伯敏子夫人をむかえ 平和への誓い 新たにもてば 夏雲に 鐘は響きて 草ぐさの 花は匂へり」
 そして反歌として
いまおもいあらたにわれら立ちつくす平和の鐘の音ひびくとき
夏雲にどどけ平和の鐘ひとつわれら祈りのひびきよとわに

 佐伯さんの死のあと、偶然にもノーベル平和賞は、核兵器廃絶に尽くした市民運動の団体におくられた。私は佐伯さんもそれにふさわしい人だと思う。思えば佐伯さんもまた「すべなき業」に生きた女人のひとりであった。
(京田辺市草内・古川章)

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