洛南タイムス連載シリーズ

新聞『山城』の25年 
本庄 豊 (京都歴史教育者協議会事務局長)

第二部 普選に揺れる南山城 ―― 一九二四年から一九二九年まで
(22)〔山宣の周辺A〕
山宣墓碑に揮毫した宮廷歌人 阪正臣 

 本稿八十七号において、昭和五年三月三日付『大阪毎日新聞』記事をもとに、筆者は次のように書いた(傍線は今回新たに引いた)。
〈「花屋敷山本家之墓」の文字を書いた阪正臣(ばんまさおみ)は、宮廷歌人・書家で、皇族たちに和歌や書を教えた人物である。江戸時代に大衆化した和様書道を、明治大正期に様式として完成させた業績で知られている。安政二(一八五五)年に愛知県知多郡(現東海市)横須賀町愛宕神社の宮司の家に生まれた阪正臣は、和歌を富樫広厚に学び、御歌所寄人、同主事を歴任し、「敷島艦行進曲(敷島艦の歌)」「教育勅語」「国旗」などの歌(作詞)を遺した。これらの経歴からわかるように、阪正臣は山宣とはまったく別の世界にいた人物である。阪正臣が、どのようにして山宣の墓石に揮毫することになったかは不明だが、花やしきに宿泊した縁ではないかと、筆者は考えている。阪正臣は山宣暗殺から二年後の一九三一年に没しているので、この墓石の文字は正臣晩年の筆といえる。〉
 拙文を読んだ近代文学研究者秦重雄氏、ならびに宇治山宣会会長藪田秀雄氏より資料提供があったので、阪正臣について一章を設けることにした。両氏から寄せられた文章を、筆者の責任で若干訂正の上、転載する。


●阪正臣と多年藪田秀雄

 「南山城の光芒」八十七号で、阪正臣氏について、「阪正臣は山宣とはまったく別の世界にいた人物である。阪正臣が、どのようにして山宣の墓石に揮毫することになったかは不明だが、花やしきに宿泊した縁ではないかないかと、筆者は考えている」と記されていますが、山宣の長女治子さんの「山本多年の和歌」(同志社山宣会発行『山宣研究』第七号・一九八二年年三月五日発行)によれば、阪正臣氏(安政二年〜昭和六年没)は宮中のお歌所の寄人(よりうど)で、山本宣治の母たね(筆名・種子、のちに多年)は和歌をたしなみ、この阪正臣氏に師事していたのです。阪正臣氏は多年の和歌の師なのです。治子さんの文章を引用します。

「どうして正臣氏の指導を受けたのかと調べたところ、多年には福田きぬ子氏という幼な友達がいた。京都の老舗のしっかい屋の夫人で、『みやび会』という歌会に属し、晩年の多年の人物評では、『歌きちがいの人』で、正臣氏に師事していたのでその紹介らしいことがわかりました。
 (きぬ子君のおみち びきによりてこの度 みやび会につらなり て)という詞書(こ とばがき)をつけて
 ひなに住む薮うぐひ すも時を得て文の林 に入るぞうれしき
という一首もある。又、正臣氏に宛てて、 (みやび会員に入る 値うちなき者の厚か ましくもきぬ子の君 のおすすめに隋ひ、 このたび初めて詠草 さし出しあげ候。何 卒み教へのほど願ひ 上げ参らせ候)
という手紙と詠草があって、返却のその詠草には朱筆で『御歌みな精神ありてよろしく承り候』と簡単に書き込まれている。
 それは明治卅年を少し出たころ、多年の三十才過ぎだろうか。このように初めは淡々と弟子にした多年だったが、出詠は熱心であり、又みやび会が宇治で歌会を催す時には多年らしい厚いもてなしぶりで、正臣氏も指導に東京、赤坂榎町から来られたようだ。次のような贈答歌もある。
 宇治川の瀬の音(と)
 まじりに玉琴のひび
 きを聞きてけるかな
        正臣
 (師の君に返し奉る
 とて 種子上)
 つたなさも恥かしさ
 も忘れつつちり払ひ
 けり宿の爪琴
 種子上というのは歌を見せるときにけんそんの心をこめているので、半紙の詠草の表にはこの「上」が書き込まれている。ちなみに半紙は横に二つ折りにしてそれを又折ったいわゆるお歌所スタイルである。この時、多年は千鳥の曲を奏でたらしく、晩秋のころのさびしい宇治の風光に添った、さりげない演出ぶりに正臣氏が感歎して、あと二首『宇治川千鳥』とか『木枯のこゑにまぎれず』などの歌を贈られている。ここに師弟の美しい間柄が伺われる」
「一番熱心に作歌した期間ははだいたい花やしきの盛業のときと一致する。それはどういうことか。明治後期から大正年間、花やしきには画家、作家、歌壇では師の正臣氏の他にもその頃の重鎮だった高崎正風、小出つばら、東久世通禧氏など大勢見えている」(「山本多年の和歌」山本治子)
 
 したがって、阪正臣氏が花屋敷山本家之墓に揮毫したのは、山本宣治の母多年と師弟の関係であったためと考えられます。

●阪正臣の短歌 秦 重雄

 大阪府立中之島図書館に行って調べてきました。阪正臣には息子の阪匡身が編んだ『樅屋(もみのや)全集』全五巻(昭和7年8月20日に一括出版、阪匡身刊)があります。「もみのや」を筆名にしていました。
 第五巻に21頁の年譜。大正十年、『明治天皇御集』の浄書を委嘱されたとあります。
 第三巻 正臣歌集(大正七年刊)に次のような歌がありました。
上 平安時代の公家の常用略装である狩衣・立烏帽子姿
下 阪正臣肖像(1855〜1931)写真と筆跡(『現代短歌集』第二巻・昭和五年発行・改造社)

 去年宇治山本にて
 したしさにわが故郷
 のこゝちしつ旅より
 たびのやどに来つれ
 ど
 宇治川にて
 ものゝふの八十宇治
 川は八十度を重ねて
 見てもあくよあらめ
 や
 同じ天ヶ瀬といふ所
 にて
 あまがせは雨ふらね
 ども瀬ともならず底
 ひしられぬふ深みど
 り哉
 
 第二巻を見だしたら、第二巻 蛙侶吟稿(明治四十二年)にこう詠われています。

 宇治川のきしのあし
 まの水くるま奥ゆか
 しくぞみえがくれす
 る
 
 また梅田の古書店で、昭和初期の円本である次の本を見つけました。山宣の碑文を書いた人であることを本庄さんが「南山城の光芒」に書いてくれていなかったら手に取ることもしなかったでしょう。
 現代短歌全集 第二巻(昭和五年七月二十五日、改造社)税所敦子 小出粲(つばら) 大口鯛二 山縣有朋 井上通泰 阪正臣 入江為盛 集
 阪正臣の肖像写真 、筆跡写真が掲載されています。うれしいことに五頁の「阪正臣年譜」もありました。
 
 昭和三年(七十四歳) 一月内閣より大嘗祭主基歌詠進被仰付との辞令を受く。八月叙従四位十二月勲三等に叙す。
 昭和五年(七十六歳) 春病む、皇太后陛下より入江太夫を以て花草其他下賜御慰問あり。

 阪正臣の和歌
 とらのこゑあらしと
 なりて払ひけむ高嶺
 の月にくももかゝら
 ぬ(猛虎一声山月高)
 大君のみくに狭しと
 いふ人はしらせる海
 をしらぬなりけり
       (海)
 大君の御陵威に似た
 りひろごりてうな原
 おほふあめのむら雲
     (海上雲)

『樅屋全集』第二巻「蛙侶吟稿 上」に以下のようにありました。

(明治四十一年九月)
十六日岩倉公に随ひて、宇治浮舟園へものしけるに、たね子すゞりばこいだしたるに、塵のありけるを、公みて、うたよむときゝし刀自の具には似つかはずやといはれしを、たね子、あてびとの来ますとしらばしづがやもちりうちはらひまたましものを
おこたりの心のちりのあらはれてうらはづかしきすゞり箱かな
とよみていだしければ、かはりてかへしせよと公のいはるゝまゝ、
はらはぬもなかなか嬉しうつせみのうき世の外の塵ぞと思へば

*ものしける→行くの婉曲表現。
*「うちはらひまたましものを」(原文のまま)

 全集と年譜を見ると「南山城の光芒」八十七号の説明とは若干食違っています。
◎名古屋花屋町に生れる。
◎敷島艦行進曲→明治三十三年六月三日敷島艦を見にゆきて乗組の士官南郷氏におくりし歌
◎教育勅語→勅語捧読式の唱歌
◎国旗→国旗(新体詩)

●岩倉具定

 秦重雄氏が引用した『樅屋全集』(阪正匡編集・日進社・昭和七年発行)第二巻「蛙侶吟稿上」「(明治四十一年九月)十六日岩倉公に随ひてに」登場する「岩倉公」とは、当時すでに故人となっていた明治維新の立役者「岩倉具視(ともみ)」ではなく、岩倉具視の第三子「岩倉具定(ともさだ)である。意訳すれば次のようになるだろう。

 阪正臣は岩倉具定に従って宇治花屋敷におもむいた折、宣治の母多年が硯箱を出したが、その箱にチリがついていた。それをみた岩倉具定は、歌人である多年の硯には似つかわしくないと言った。多年は、自らの恥ずかしさを短歌に託した。岩倉具定は正臣に多年の歌に返歌するように言ったので、正臣は「払わぬチリも嬉しい」と歌ったのである。(つづく)


 岩倉具定(1851〜1910) 岩倉具定は岩倉具視の第三子として、京都に生まれた。戊辰戦争に従軍後、アメリカに留学し、帰国後官僚となる。一九八二年には伊藤博文に随行して欧州に渡り、大日本帝国憲法制定のための調査活動を行う。貴族院議員、学習院長、枢密顧問官を歴任し、一九〇九年に宮内大臣となった。
 この経歴から見るように、岩倉公は明治政府の中枢にいた人物であり、宮廷歌人阪正臣と親しかったのは、岩倉家の家督を嗣いで公爵という身分だったことからだろう。
 岩倉や阪と親しく話をする多年を女将とする宇治花屋敷は、今日で考えるよりもはるかに高い格式を持った旅館となっていたのである。それは、平安時代の貴族、藤原氏別荘地に位置しているという立地条件に加え、山本多年という女性の品格と教養の高さがもたらしたものであろう。









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