ワールドカップ観戦記
梅原 幹正

No23
 試合が行われた11月1日のソウルは少し寒かった。しかし見上げると、韓国だけれども“日本晴”の青空が広がっていた。
 最寄地下鉄駅出口からソウルオリンピックのメーン会場であったチャムシルスタジアムまで、真っ直ぐな一本道が二百b程伸びていた。これは、例えば、Jリーグのスタジアムと比べると、非常に恵まれたアクセスだと思った。
 道の両端には、何の木かは判らないが、広葉樹が等間隔で植えられていた。このスタジアム
は88年ソウルオリンピックの開催に合わせて作られたものであったから、恐らくこの木々も、その時に植えられたのだろう。 97年11月1日はソウルオリンピック開催からまだ9年しか経っていない。だからそれ程に枝葉は伸びていない、目測2bぐらいの広葉樹が、まだ風化を微塵にも感じられない道路を囲んでいた。
 私は寒いが、充分に陽の光を受けているその、まだ若々しい並木道を、スタジアムを見上げるトコロまで進んで、前回記したような強烈な歓声に出会い、チケットを持っていなかったため、中に入って観戦したいという思いを抑え切れぬまま、結局戻り道を、スタジアムを見上げる位置から100b程進んだトコロで、グラサンかけた怪しい、いやもう怪しくはない、グラサンを外したらきっとキレイナヒトに出会い、チケットを定価で譲ってもらえるという幸運を得た。
 結局は思い違いであったが、プラチナ化していて、さらには自宅から行くには往復3万円近くもかかる東京は国立競技場まで行って試合を観戦するよりも、海外旅行も出来て、TVで見たW杯出場に挑む韓国代表の試合会場がガラガラだったから、余裕で試合も観戦出来るだろうと思ったので、韓国渡航を決断した私には、あつかましすぎるほどの幸運だった。
 この日、1万人もの日本人サポーターがソウルに来ていた。
 きっと98年仏大会の時と同じように、この時もたくさんの観戦ツアーが組まれていたのだろう。強烈に記憶しているのは、日本がアジア第三代表の座をかけてマレーシアでイランと試合をする事が決定したという段階で、旅行会社の企画担当者が、イランに負けた場合を考慮して、その次のW杯出場チャンスであるトコロのオーストラリアとの試合(ホーム&アウェイで戦うことになっていた)を、彼の国メルボルンまで応援に行くツアーを準備しているのをスポーツニュースで見た事だ。
 こういうツアーは、恐らく私が選んだ単純に韓国に3日間滞在出来るだけのツアーよりも、チケットという付加価値がついているために、高額になっていたに違いない。
 あの頃は今02大会の時のように、インターネットは普及していなかった。私の知る範囲では、チケット販売サイトなど設けられていなかった。もしかしたら海外で行われる試合のチケットなんて、旅行会社に頼むくらいしか方法がなかったのではないだろうか。
 そもそもそれ以前、海外までスポーツイベントを観戦しに行ったという人はどれくらいいたんだろう。
 マレーシアで行われた、日本が仏W杯初出場を決めたイランとの試合には5万人以上の人が観戦しに行った筈だが、それまでには5万人も、例えばオリンピックやその他競技の世界大会を観戦しに行った事などあったんだろうか。私の両親は海外にまでスポーツイベントを観戦しに行くなんて考えもしなかったと言っていた。もしかしたら、出場選手の身内ぐらいしか海外にまで応援に行くことなどなかったかもしれない。
 それが何故急に、突然多くの人が海外にまでスポーツイベントを観戦しに行くことになったんだろう。
 私もしっかりその中の一人であるのだが、単純に「サッカーは生で見るのが一番面白いから」と言うようなことだけではないような気がする。
 もっともこれらは今になって考えてみることで、スタジアムへ「初めてサッカーの国際試合が観戦出来る」という高揚感で体が弾け飛んでしまいそうになるのを必死で抑えながら歩いている時はそんな事、考えもしていなかった。
 本当は弾け飛びそうな気持ちそのままに、走り出したかったのだが、走ればゆっくりとスタジアムへ向かう韓国人の群れの中から浮いてしまうと思ったので走るのは控えていた。
 私は黒いジャンパーに身を包んでいた。だから、真っ赤なユニフォームを着る韓国人達からは、相当に異色な存在だったと思う。チケットを購入する過程で彼等の優しさには気付いてたが、それでも目立つ行動をとれば“なにかされるかも”と思って、走り出したい気持を堪えていた。
 ゆっくりと、スタジアムまでの、日本人など全くいない並木道を進みながら「チケットが手に入るというあてもないままソウルまでサッカーを観戦しに来たヤツなんて、私ぐらいのものだろう」と思ったり、赤いユニフォームを着た多くの韓国人達に歩調を併せながら「ここを歩いている韓国人の中にも、スタジアム前で、それもキックオフ1時間前に定価でチケットを譲ってもらえるという幸運を得た人間など一人もいないだろう」と、思ったりして、走り出したい気持ちを紛らわしていた。


 前の人の足を危うく踏んでしまいそうになるのを気をつけながら…。


 スタジアムを見上げる位置に着いた。正面前方に入場ゲートがある。先程は入ろうとしても入れなかった入場ゲートがある。奇跡としか言いようがない方法で手にしたチケットという入場して試合を楽しめる権利を持った私は遂に国際試合を観戦できるのである。
と、ここのくだりを書いて思わざるを得なかった。98仏杯初出場を収めた日本代表をフランスまで応援しに行ったものの、旅行会社の不手際で、スタジアム入場を果たせなかった人達のコトを…。
 あの人達はこの日ソウルにいた私とは、完全に真逆の立場に追い込まれていた。入れる筈だったのに入れなかった人達はその後、何らかの優遇策を、例えば旅行会社は彼等にお詫びのつもりで、02年杯において、チケットを廻したりしたんだろうか(これはこれで、問題になるだろうけど…)。
 私がフランスはナントで対クロアチア戦を観戦した後、パリで会ったOL二人連れには、旅行会社から、観戦出来なかった試合の代わりにと、セーヌ川を遊覧する券が渡されていた。彼女たちは「帰国したら訴える」と、息巻いていた。セーヌ川遊覧で試合観戦に換えると言うのは何とも馬鹿にした話だと思った。
 その時入場が叶わなかった何人かが、あちこちの広場に設けられたパブリックビューイングに出向かず、恐らく私がこの日ソウルで初めて立った、スタジアムを見上げるような位置に立ち、チケットを手にした人達が発する凄まじい歓声を羨望しながら、せめて声援だけでも日本代表に届くようにと、試合が行われている間中、応援していたことを、どこかで読んだことを思い出した。


 涙腺の緩む思いがする。


 8万人も入れる巨大スタジアムへと入るゲートは、当然ながらひとつではない。いくつもある。
「さて、私が幸運にも手に入れたチケットには、どんな席が割り当てられているのだろう」と、工事現場に「一旦停止」とか「片側通行」等と書いて置いてある、あの実にちっぽけな看板の2倍ぐらいの大きさで、それと同じような材質で出来ている、目線よりも高い位置に設置されていた座席見取り図と照らし合わせてみることにした。
 見取り図は座席ブロックを、赤・青・黄等々に色分けして表示していた。が、私の持っているチケットは二色刷りであるため、当然の如く色なんてなかった。ハングルで何色であるかを書いてあったのかもしれないが、ハングルは全く読めないので、照らし合わしをする事が出来なかった。要するに、何処から入ればいいのか全く判らなくなってしまったのだ。
 仕方がないので、モギリにチケットを見せ、注意されれば、次のゲートに行くというふうにして、ひとつひとつ入場ゲートを潰してゆくほかはないと心に決め、自分のいる位置から最も近いゲートに目をやった。
 そこにいるモギリは、日本のように女の子やボランティアではなく、黒い制服に身を包んだ警官だった。
 時計に目をやると、試合開始20分前を指していた。急がなければならなかった。が、黒尽くめの制服で、眼光鋭くモギリを務める警官を見た時「席も判らないチケットをどうやって手に入れたんだ」と、怪しまれるかもしれないと感じて、向かう足が竦んでしまった。だから私は、それまでの高揚感とは打って変わって、ビクビクしながら入場ゲートへ、赤いユニフォームを身に纏った人達の中を、目立つ黒いジャンパーで、進んでいった。


 後の人に足を踏まれそうな程にゆっくりと…(つづく)。

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