検証 六地蔵ものがたり @
期待される活性化策、将来像は?
宇治市の北の玄関口・六地蔵

16年秋に地下鉄駅、変貌する駅前

宇治ショップセンター問題も法的決着へ



 宇治市の北の玄関口といわれ、京都市とも隣接する交通の要衝にもなっている六地蔵地域。京都市営地下鉄東西線六地蔵延伸事業も2004年(平成16年)秋の開業をめざして工事が進められており、起点となるJR六地蔵駅周辺はもちろん、京阪六地蔵からのアクセス整備も進んでいる。一方ではイトーヨーカ堂六地蔵店、近鉄百貨店モモの開店、イズミヤ六地蔵店の増床、消費者の京都市内への流出に加えた景気低迷で周辺商業関係者は厳しい。バブル時代に翻弄され、いわば象徴的な犠牲者でもあった宇治ショップセンター協同組合は今、さまざまな裁判ではほぼ決着したが未だ活性化策や将来展望が示せる段階には至っていない。善良な組合員、地域の期待の声に応えられるのか……。

 六地蔵は、かつての六地蔵村時代から交通の要衝。宇治市史(4巻)でも「明治維新とともに、街道筋の封建的遺制がとりのぞかれると、南北に走るこの二街道(大和街道、奈良街道)にも荷車・人力車・馬車・牛車、そしてやや遅れて自転車・自動車が走り始め、その状況に応じた道路の新設や改修そして架橋も少しずつ進められた。明治5年(1872)6月に京都建仁寺町通五条から、伏見街道藤ノ森を経て六地蔵を通り宇治橋にいたる馬車の運行が始まっているが、これは旧来のままの道路ではできえないことであった」とあり、明治7年には六地蔵街道と大和街道が1等道路に指定されている。また、古い街並みとして「六地蔵の札の辻・柿木・紺屋町あたりがあった」。六地蔵の宿として栄え、大井浜や柿木浜を中心にした運送業者、あるいは街道筋の茶店などがこの地の家並みを形成していた――ようだ。

 宇治川の氾濫でたびたび被害にも遭っているが、明治期の電鉄ブームを背景に1913年(大正2年)には現在の京阪電鉄宇治線が開通し、六地蔵駅も開業している。
 大きく変貌したのは1933年(昭和8年)に始まった巨椋池干拓事業。その名残だった宇治市の市有地だった奈良町池跡地1万2225平方bの入札があったのは1982年(昭和57年)12月21日。22日付洛南タイムスによると、スーパーなどの大型店への売却に反対、文化・スポーツ広場を求める「つくる会」「大型店進出反対連絡会準備会」関係者が入札会場を訪れ、ビラを配布するなかで行われた。姫路市内の建設会社が28億円で落札したが、契約には至らず年が明けた1月19日に再入札があった。今度は新顔の葛椏s住宅が20億6千万円で落札し、今度は契約。
 当時のことをよく覚えている市民は今もなお憤懣やるかたない。「宇治市はもともと六地蔵の財産を売り払い、文化センターを建てたが、本来は奈良町池跡地にこそ建設すべきだった。交通の便利もいいし、今の文化センターよりもずっと利用者は多かったはず。それが結果はヨーカ堂のダミー会社に売却してしまい、地域の商業は衰退したし、さまざまな対立や事件さえ生んだ」と批判は手厳しい。

 奈良町池売却当時はまだ大型店の動きは水面下にあった。何度か大型店進出が絡んでいるのではないか――という出来事はあったが、一挙に表面化が始まるのは容疑者不明のままになった六地蔵町並、宇治ショップセンター協同組合の放火とみられる大火災事件だった。1986年のあがた祭の日、6月5日午前1時20分頃、センター1階中央部付近から出火。地元宇治市消防本部から消防車・消防はしご車、東宇治消防団員、消防職員が出動。懸命な消火作業にあたったが、鉄骨モルタル塗り2階建て2189平方bを全焼。営業していた52店舗が焼け出されてしまった。それからだった。地元住民同士の裏切り・背信、金銭授受を中心とした欲望、お金のやりとり。裏の情報合戦が本格的に始まったのは……。(つづく)


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